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大運寺
大運寺

(浄土宗宗歌・月影)
月影の いたらぬ里は なけれども ながむる人の 心にぞすむ」  法然上人

意味:阿弥陀様のすべての人を漏らさず救うというお誓い(本願)は、月の光のように誰にもどんな里にも平等にふり注いでいます。しかし眺めた人にしか月の光の存在が分からないように、南無阿弥陀仏と念仏を称えた人だけが阿弥陀様の本願によって極楽浄土に生まれること(往生)ができるのです。

本堂には法然上人一代記の彫刻の欄間があります。

画像の説明

1、誕生・父との死別(1~9歳)

誕生
 法然上人は長承2年(1133年)4月7日、美作の国久米南条稲岡庄(現在の岡山県誕生寺)にお生まれになった。父は押領使(地方の治安維持にあたる在地豪族)を勤める漆間時国(うるまときくに)、母は秦氏の君(はたうじのきみ)。幼名を勢至丸と名づけられ、両親、一族の深い寵愛を一身に受けすこやかに成長された。

父の非業
 保延7年(1141年)、父である漆間時国は日頃より反目していた敵の源内武者明石定明の夜襲にあい、非業の死を遂げる。時国は臨終間際、少年の法然上人を呼び寄せ「決して仇を討ってはいけない。仇は仇を生み、憎しみは絶えることがなくなってしまう。それならばどうか、全ての人が救われる道を探し、悩んでいる多くの人々を救って欲しい」という遺言を残し、息を引き取ってしまった。時に勢至丸9歳のことである。

2、出家・修学(9~15歳)

叔父のもとへ
 その後、漆間家は四散を余儀なくされ、世次の勢至丸は追撃の手を逃れるために、母方の叔父にあたる観覚のもとへ身を寄せる。観覚は当時菩提寺の住職をしており、勢至丸は菩提寺に預けられ観覚から仏教の手ほどきをうけた。
 6年余りの修学で観覚は勢至丸の非凡な才能に気づく。辺境の地に埋もれてしまうのは惜しいと考え、当時の最高学府でもある比叡山へ昇ることを勧めたのである。
 
比叡山へ昇る
 別れがたくして母と別れ、単身比叡山に昇ったのは久安3年(1147)勢至丸15歳のときである。叡山最初の師匠は源光であった。源光は自分の手に負える人物ではないとすぐさま勢至丸の器量を見抜き、皇円への入室を勧めた。登叡して数ヶ月で師匠が変わることとなったが、同年正式な僧侶の登竜門となる授戒会の儀式を受け、正式な出家の身(僧侶)となった。同時に父の遺言を探し出すため天台宗の勉学にいそしんだ。

3、隠遁・求法(15~43歳)

この世を厭う志
 しかし、当時の比叡山は名誉や派閥争い等、俗世間的な争いも多かった。又出家のための仏教であって一般民衆は置き去りにされていた。勢至丸は比叡山の中でも高僧が集い、より修行、修学に励むことが最適な黒谷に隠遁する決意を固める。しかも黒谷青竜寺には当時貴重であった全ての経典が書かれている「一切経」が保管されていた。「一切経」を読めば父と全ての人が救われる教えが必ずあるはずだという信念を胸に、皇円にいとまを告げ、叡山でも奥深い黒谷青竜寺に住する叡空の門をたたいた。

法然房源空
 叡空の弟子となった勢至丸は「年少であるのに出離の志をおこすとはまさに法然道理の聖である」と叡空から絶賛され、法然房という房号をもらう。又、源光と叡空から一字ずつとって源空という諱(名前)も授かった。久安6年(1150)18歳のことである。
(法然上人の正式名称は法然房源空という)

高僧に教えを尋ね歩く
 保元元年(1156)、24歳のとき、嵯峨清凉寺に詣で父の遺言である全ての人を救う教えを見つけられることを祈願する。その足で京都、奈良の有名寺院、各宗の本山とそのご住職を尋ね歩き、教えを請うた。しかし求める教え(法)はどこにもなかったのである。
 当時の事を法然上人は次のように述べている。「多くの智恵ある人に尋ね、多くの学者に問いかけたけれども、全ての人が救われる道を、教えてくれる人もいなければ、示す人もいなかった。嘆き嘆き又経蔵に入り、悲しみ悲しみ再びお経に向かうよりほかなかった」

智慧第一の法然房
 法然上人は再び青竜寺にもどり比叡山の厳しい修行を勤めると同時に、一切経と向い合って学問にも励んでいった。上人の比叡山での修学は28年間もの長きにわたる。その間、常人では一生かかっても読破できないような膨大な量の一切経を5度も読み返したのであった。そのため「智慧第一の法然房」「ふかひろの法然房」と名声ばかりが広がっていったが、求める教えは見つからず上人の苦悩が晴れることは決してなかった。

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4、浄土宗を開く(43歳)

善導大師に導かれて
 法然上人は「観経疏」という唐の善導大師がお書きになった書物を8度も読み返していた。それには「南無阿弥陀仏と念仏を称えれば、全ての人が漏れなく救われる。なぜなら阿弥陀如来の誓い(本願)だからである」という一文をご覧になった。阿弥陀如来の誓い=本願念仏によってのみ全ての人が救われる。善導大師のご文に導かれ、ようやく長年の苦悩が晴れ「これですべての人々が救われる」という確信を得た。
 こうしてついに承安5年(1175年)43歳の春、法然上人は浄土宗をお開きになったのである。
(浄土宗のお寺と仏壇には必ず向って右側に善導大師をおまつりする)

5、念仏の勧め(43~66歳)

大原問答
 43歳で本願念仏の教えに出会うと比叡山を降り、主に東山吉水(京都の丸山公園付近)にお住まいになった。上人の小さな吉水の禅房には本願念仏の教えを聞こうという民衆が連日群れをなした。燎原の火のように念仏の教えが広がると既存仏教教団からも注目されることとなる。そのため比叡山、京都、奈良の各宗派から法然上人の念仏の真偽を問いただそうという大原問答が行われた。しかしながら一昼夜に及ぶ法然上人対各宗の高僧達の激しい論戦は法然上人に軍配が上がり「智慧第一」の誉れと「本願念仏の教え」はより一層広がっていくことになる。文治2年(1186)上人、54歳のことである。

東大寺での講演
 当時は源平合戦の被害で東大寺は全焼していた。そのため新しく再建する任に法然上人が選ばれたが辞退したため俊乗房長源が勧進職についていた。法然上人は長源の請いで再建途中の東大寺において『浄土三部経』(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)の講義をした。文治6年(1190)、上人57歳のことである。
(現在の浄土宗でも拠り所とする経典は浄土三部経である)

幅広い帰依者
 上人は求められれば身分の上下を問わず念仏の教えを説いた。上は高倉、後白河、後鳥羽の3人の天皇に授戒を行った。宮中では関白九条兼実をはじめ多くの貴族関係者。又、熊谷直実、平重衡をはじめとした源氏平氏を問わないたくさんの武士達。諸宗のお坊さんや、弟子入りしたお弟子達はいうに及ばず、下は盗賊や遊女にいたるまで、これほど身分の上下を越えて分け隔てなく平等に教えを説き聞かせていったお坊さんは日本の歴史上でも法然上人只お一人だけである。

選択集(せんちゃくしゅう)
 当時宮中において九条兼実は、法然上人の絶大な庇護者であり帰依者であった。その兼実が「念仏の教えは普段から承っているが、心得ないこともあるので、なにとぞ書物にして欲しい」との懇願があった。そこで法然上人は1部16章からなる『選択本願念仏集』(略して選択集)を書き上げた。健久9年(1197)、上人65歳のことである。
「選択集」は800年を経た今日にいたるまで伝えられ、現在の浄土宗において根幹をなす念仏者の聖典として経典同様に読まれている。
(「選択集」の草稿本は京都の蘆山寺に蔵されている)

6、相次ぐ苦難(67~80歳)

元久の法難
 法然上人の本願念仏の教えとは異なる教えを、さも法然上人の教えのように吹聴してまわる僧も数多くあらわれた。法然上人の教えに便乗して「念仏すれば全てゆるされる」等の言動が横行していたのである。そのため比叡山の僧侶らはその責任を法然上人にとらせようとした。法然上人にとっては無実の罪を着せられたわけだが当時の比叡山の影響力は国家宗教的な面も有しており強大であった。そのため門弟たちの自粛を訴える「七箇条制誡」をまとめ、上人と190人余の弟子達が署名をした上で天台座主に送られた。九条兼実の働きかけと庇護もあって何とか大事に至らずに済んだ。元久元年(1204)、上人72歳のことである。
(「七箇条制誡」は京都嵯峨の二尊院に蔵されている)

建永の法難
 しかしながら法然上人と浄土宗への弾圧は止むことがなく、反対に厳しいものになっていった。奈良の興福寺を初めとして当時既成の仏教教団全てから念仏の停止を奏上されるほど(興福寺奏上)激しさをましていた。
 又運の悪いことに、住蓮、安楽という上人の弟子によって後鳥羽上皇の女官である鈴虫、松虫が勝手に出家してしまったのである。この事件は上皇の逆鱗にふれ、住蓮、安楽は死罪、法然上人は四国へ流罪と決まってしまった。建永2年(1207)、上人75歳のことである。

四国へ流罪
 無実の罪とはいえ上人が四国へ流されることになり弟子達は高齢の上人を心配して念仏を止めてはどうかと勧める者もいたが、「たとえ死刑にされるとしても念仏の教えを説くことは決して止めない!」と断固とした厳しい態度で戒めた。そして「長年、地方に行って念仏の教えを説くことが願いだった。今回それが果たせるのも朝廷のお陰である。念仏の教えは止めようと思っても広がっていくだろう」とお話になった。そうして四国へと向い、行く先々で多くの人々に念仏の教えを説いて聞かせたのである。

7、極楽往生(80歳)

一枚起請文と浄土往生
 四国流罪となってから許され約5年ぶりに京都に戻った。吉水の禅房は荒廃していたため大谷の禅房(現在の総本山知恩院)にお住まいになったが、高齢と所労が重なりほとんど病床につくようになった。
 亡くなる2日前、横になり念仏しながら過ごす上人に、弟子の一人がどうか形見に一筆書いて下さいと懇願をした。そして念仏の要諦、浄土宗の肝要を『一枚起請文』としてお誓いになられ、書き残してくださったのである。
(「一枚起請文」は現在の浄土宗においてもお勤めの中で拝読しお経と同様にお読みしている)

 建暦2年(1212)正月25日の正午、頭北面西のまま「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」の経文を称え、眠るがごとくに極楽浄土へ往生された。80歳のご生涯であった。

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本堂内の欄間
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