大運寺について

**庚申塔・庚申塚 [#d52853da]

庚申さんは道の辻や、寺社や墓地の入り口などに置かれ、延命長寿にご利益があると言われています。
干支の組み合わせで六十年に一度、庚申の年があり、一年に六度あるいは七度、庚申の月があります。庚申塔や庚申塚の主流となるのが「青面金剛刻像塔」です。

青面金剛

青面金剛は名前のとおり顔は青く、三眼の憤怒相で腕は六臂(二臂~八臂まで様々)に法輪・弓・矢・剣・羂索・錫杖を持ち足元に邪鬼を踏みつけています。

本来、奇病を流行らす鬼神で猿の化身ともいわれていましたが仏法に帰依し帝釈天の使者になって良い神になりました。浄土宗寺院にあるのは非常に珍しいそうで、由来は不明です。

**徳本上人 [#jcc0c058]

徳本上人
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徳本上人は、宝暦八年(1758)、紀州日高郡志賀村に生まれ、四歳の時、隣家の子供の急死に遇って無常を感じ、常に念仏を唱えるようになったという逸話が残っています。

天明四年(1784)二十七歳で出家した後は、草庵に住み、一日一合の豆粉と麦粉を口にするだけで、念仏を唱え続けたといわれます。

また四十五歳までは水行をしたり、断崖絶壁の岩上で千日の間、不断念仏を行ったなど、他に例のない過酷な修行をした事も伝えられており、行場跡も多く残っています。
(その姿は長髪・長爪・裸に袈裟をかけただけの異形だったと伝えられています)。

不断の苦行によって梵網戒経を感得し、念仏の教義を悟ったといわれています。

寛政六年(1794)ころから始めたといわれる全国行脚は、紀伊・河内・摂津・京都・大和・近江・美濃・三河・江戸・相模・下総・信濃・飛騨・越後・越中・加賀など、驚くほど広範囲に及んでいます。

美濃地方には文化八年八月十七日勝尾寺を出立され、二十一か寺で布教教化の後、同年九月十日にもどられました。

当山には九月五日・六日の二日間、滞在され、お勤め、お説教されました。名号碑は、徳本上人入寂の翌年(文政二年初夏建之)に十世中誉上人と檀家、講中の人々によって上人の供養塔として建立されたものと思われます。

石碑(名号碑)は全国各地に千基以上あり、その信仰は今も庶民の間で生き続けています。

延命地蔵菩薩座像(金仏)

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第五世禀誉上人の代に鋳造されましたが濃尾大震災の時、火災の熱で溶解、頭部だけが池の中に落ちて奇跡的に残りました。明治三十四年、地蔵尊の全身を復元鋳造しました。

ある時、お地蔵様に見知らぬ方がお詣りしておられましたのでお話を聞いたところ「病気で入院していたとき、ここのお地蔵さんが現れて命を救ってくださったんです。

生きている限りお詣りさせて頂きます。」 と言われました。とても霊験あらたかな、お地蔵様です。

**鐘楼堂 [#w91de482]

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昭和七年、第十六世順誉上人の代に再建されました。&br;本葺きの屋根・総欅作り・扇垂木(おおぎだるき)・龍や獅子やその他の彫刻・揖斐の青石の基檀・全体のバランス等々、鐘楼堂としては最高の建築物として将来文化財に指定されるとの評価をされています 。&br;とくに2人の彫り師に競わせたとされる欄間や火を噴いている龍や獅子は芸術的です。


**コンクリートの梵鐘 [#ec0ea190]

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大東亜戦争中、当山の梵鐘は金属回収令によって国に献納されました。鐘楼堂は梵鐘が釣ってあることで建物のバランスが保たれます。
そこで同じ重さのコンクリート製の梵鐘を作り代用としました。

コンクリート製ですので撞くことはできませんし、音も出ません。

左官屋さんの腕が良さが形に表れています。昭和五十一年に新たに銅製の梵鐘を鋳造しました。

**御衣黄桜 [#k37dea8e]

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ソメイヨシノが散り始める頃、黄緑色の淡い花が咲き始めます。
満開をすぎるとだんだん薄いピンク色に変わります。

大垣市に数本しかない珍しい桜です。鐘楼堂を背にした桜は趣があり、遠くから見に来てくださる方も増えてきました。

開花中は午後6時~10時までライトアップしています。

**谷汲山御分身十一面観世音菩薩 [#c624b8bd]

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明治二十四年十月二十八日の濃尾大震災で大垣町(当時は安八郡)は総戸数4597戸の内4318戸が全壊または半壊し、その中で全焼は934戸ありました。

総人口18306人の内、死者は789人、負傷者は1270人でした。当山は全焼し、第十五世徳誉上人も本堂の下敷きとなり焼死しました。

そこで大垣町の勝沼信之氏が発起人になり震災の犠牲者の慰霊のために慈眼會を作り、谷汲山華厳寺様から十一面観世音菩薩の尊像を奉請して三十三日間慰霊法要を勤修しました。

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それ以後も震災犠牲者の供養ために、尊像を大運寺に奉安していただけるよう第十六世順誉上人及び檀信徒が願い出たところ、谷汲山華厳寺様の特別の計らいにより許可されました。

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**当麻曼荼羅  (絹本)  約220cm×260cm  室町後期~桃山初期作 [#v5c03060]

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この阿弥陀浄土変相図は善導大師の説に基づいたもので中心は多数の菩薩に囲まれた阿弥陀三尊のいる西方浄土を表しています。

またフィルムのコマのように区切られた中は死後に往生する姿などを説明するために工夫されています。奈良の当麻寺に伝わる曼荼羅と同じ構図になっています。

濃尾震災(1891年)の時、辛うじて持ち出されて難を免れました。昭和63年~平成元年に京都にて大修復をしました。現在桐の二重箱に保存されていますが、以前は桐を刳り抜いた箱に納められていました。箱だけでも価値があるそうです。

**釈迦三尊図 (絹本)室町中期~室町後期作 [#x6951b56]

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お釈迦様、獅子に乗った普賢菩薩様、白象に乗った文殊菩薩様が描かれています。

浄土宗ではご本尊様の裏側(背中合わせ)にお釈迦様をお祀りします。

大運寺には濃尾震災後再建されてからこれまでお祀りされていませんでした。

この度の平成の大修理を祝ってご寄進して頂きました。大谷家の所蔵だった由緒あるお軸が京都思文閣を経て大運寺に伝わって来ました。

**ご本尊と光背 [#zcbfdba3]

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伝慈覚大師作のご本尊を濃尾震災で焼失した後、当山第十六世順誉上人のとき京都黒谷金戒光明寺第五十九世獅子吼観定台下より、現在のご本尊の阿弥陀如来立像を下附していただきました。
(台座は大きくて持ってこれなかった。)

こちらで台座と光背をお作りしてお祀りしていますのが現在のお姿です。
両脇侍の観音・勢至菩薩は大垣市切石町の薬師堂からいただいたとあります。

平成十七年本堂大修理のため倉庫を整理したところご本尊の元々の光背が見つかりました。

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その光背を仏師に見てもらったところ、ご本尊はもともと一光三尊阿弥陀如来(善光寺式阿弥陀三尊)であったことがわかり、脇侍の観音・勢至菩薩は本堂の西檀に在るものである事を確認しました。

黒谷本山は、善光寺如来四十八願所の三十三番目の札所であり、まさにそこにお祀りしてあった阿弥陀三尊様が大運寺にいらしていたという事です。

これは、平成の大修理がもたらした新たな発見であると同時に、当時の住職の尽力 のたまものであり当山の誇りです。

**三玉大明神社 [#o9c6f85e]

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三玉大明神とは大運寺で産まれたお狐様で、清玉大明神(母)咲玉大明神(姉)吉玉大明神(妹)の事です。

ご神体は二体あり、一つは第十世中誉上人(1800年頃)代のもので、梁誉源棟上人(不詳)からの相伝として疱瘡治癒(疱瘡除け)秘法が書かれています。

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もう一つは、第十四世仙誉上人代のもので、お狐様の年齢は当時、二百十一才で、御眷属(ケンゾク)として二百二十二才の守道稲荷がついていたと記され、病気除けと寺門興隆、檀信徒の和合、除火盗難のために勧請したことが書かれています。

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現在では天然痘が撲滅されたため、日本全国に点在した三玉明神社が消えていってしまい、存在自体が大変めずらしいと思います。大運寺をお守りして下さる守り神としても大切にしていこうと、平成20年5月に建て替えました。

**地獄絵図 [#x611dcb0]

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