沿革

■寛永19年(1642年)生蓮社見誉上人(増上寺19世登誉智童の尊弟也、生国は近江膳所の人、人姓青木氏の長男也)真言宗 道故山 理清寺に入山し改宗、再建、浄土宗 黒谷金戒光明寺の末寺としての歴史を刻む。

■真言宗の時代の創建及び開基上人等は不詳。

■見誉上人はその後弟子の大蓮社運誉上人(大運寺初代)を開山中興とし美濃赤坂安楽寺に転住その後岐阜本誓寺21世となり更に揖斐春日村の光明寺を再建し光明寺初代となり貞亨4年没す。

■万治元年(1658年)称念山 報土院 大運寺と改名する。

■大運寺は江戸時代大垣藩を監視する命を受けており、その見返りとして徳川家の菩提寺である増上寺から当山東側一帯の土地を寺領として与えられていた。

■創建以来、幾たびかの天災地変に見舞われましたが、特に明治24年10月28日の濃尾大震災には 本堂・庫裡・観音堂・書院・地蔵堂・鐘楼堂・山門(左甚五郎の作で有名だった)等伽藍全部焼失。15世住職徳誉玉順上人38歳で焼死。悲惨を極めた。

■翌月16世順誉大真上人  黒谷金戒光明寺59世獅子吼観定台下からご本尊(一光三尊仏)・九條袈裟・木魚を下附される。

■明治29年8月大水害で仮本堂半壊す。

■明治44年 現在の本堂を再建。(16世)

■大正4年 観音堂再建。 谷汲山華厳寺より十一面観世音菩薩を招来。(16世)

■昭和7年 鐘楼堂再建。(16世)

■金地蔵様は5世禀誉上人の代に鋳造され、濃尾震災で頭部だけ池に転がり難を免れ、後に胴体を作り直した(16世)

平成16年~20年 本堂・鐘楼堂の大改修工事(20世)
平成21年10月18日落慶法要(20世) 現在に至る。