仏像・石仏

ご本尊と光背

50%

50%,光背


千体仏の付いた一光三尊阿弥陀如来の光背
(高さ約150cm・幅93cm)

50%,延命地蔵菩薩座像

伝慈覚大師作のご本尊を濃尾震災で焼失した後、当山第十六世順誉上人のとき京都黒谷金戒光明寺第五十九世獅子吼観定台下より、現在のご本尊の阿弥陀如来立像を下附していただきました。
(台座は大きくて持って来れませんでした。)こちらで台座と光背をお作りしてお祀りしていますのが現在のお姿です。
両脇侍の観音・勢至菩薩は大垣市切石町の薬師堂からいただいたとあります。

50%,元々の光背

平成十七年本堂大修理のため倉庫を整理したところご本尊の元々の光背が見つかりました。

その光背を仏師に見てもらったところ、ご本尊はもともと一光三尊阿弥陀如来(善光寺式阿弥陀三尊)であったことがわかり、脇侍の観音・勢至菩薩は本堂の西檀に在るものである事を確認しました。

黒谷本山は、善光寺如来四十八願所の三十三番目の札所であり、まさにそこにお祀りしてあった阿弥陀三尊様が大運寺にいらしていたという事です。
またこの度の本山の宝物調査によれば、この仏様が比叡山の黒谷青龍寺から金戒光明寺に下附された仏様である可能性が強く、そうなれば、まさに法然上人も拝まれていた阿弥陀様という事になります。

これは、平成の大修理がもたらした新たな大発見で、引き続き調査をしているところです。

谷汲山御分身十一面観世音菩薩

藤原時代

明治24年の濃尾大震災での犠牲者を供養するために谷汲山華厳寺より、下附していただきました。

十一面観音はその深い慈悲により衆生から一切の苦しみを抜き去る功徳を施す菩薩であるとされ、女神のような容姿をしています。
頭部正面には阿弥陀如来の化仏(けぶつ)を頂き、頭上には仏面、菩薩面、瞋怒面(しんぬめん)、狗牙上出面(くげじょうしゅつめん)、大笑面などさまざまな表情の面が乗っています。
右手は垂下して数珠を持ち、左手には紅蓮を挿した花瓶をもっています。

七月九日・十日の九万九千大功徳日に年一度だけご開帳されます。

延命地蔵菩薩座像(金仏)

50%,延命地蔵菩薩座像 第五世禀誉上人の代に鋳造されましたが濃尾大震災の時、火災の熱で溶解、頭部だけが池の中に落ちて奇跡的に残りました。

明治三十四年、地蔵尊の全身を復元鋳造しました。

二十数年前の事、お地蔵様に見知らぬ方がお詣りしておられましたのでお話を聞いたところ
「病気で入院していたとき、ここのお地蔵さんが現れて命を救ってくださいました。あちこち探しましたが、やっと出会えました。」 と言われ、涙ぐんでおられました。

とても霊験あらたかな、お地蔵様です。

徳本上人供養塔

50%,徳本上人 徳本上人は、宝暦八年(1758)、紀州日高郡志賀村に生まれ、四歳の時、隣家の子供の急死に遇って無常を感じ、常に念仏を唱えるようになったという逸話が残っています。

天明四年(1784)二十七歳で出家した後は、草庵に住み、一日一合の豆粉と麦粉を口にするだけで、念仏を唱え続けたといわれます。

また四十五歳までは水行をしたり、断崖絶壁の岩上で千日の間、不断念仏を行ったなど、他に例のない過酷な修行をした事も伝えられており、行場跡も多く残っています。
(その姿は長髪・長爪・裸に袈裟をかけただけの異形だったと伝えられています)。

不断の苦行によって梵網戒経を感得し、念仏の教義を悟ったといわれています。

寛政六年(1794)ころから始めたといわれる全国行脚は、紀伊・河内・摂津・京都・大和・近江・美濃・三河・江戸・相模・下総・信濃・飛騨・越後・越中・加賀など、驚くほど広範囲に及んでいます。

美濃地方には文化八年八月十七日勝尾寺を出立され、二十一か寺で布教教化の後、同年九月十日にもどられました。

当山には九月五日・六日の二日間、滞在され、お勤め、お説教されました。名号碑は、徳本上人入寂の翌年(文政二年初夏建之)に十世中誉上人と檀家、講中の人々によって上人の供養塔として建立されたものと思われます。

石碑(名号碑)は全国各地に千基以上あり、その信仰は今も庶民の間で生き続けています。

庚申様

30%,青面金剛 庚申さんは道の辻や、寺社や墓地の入り口などに置かれ、延命長寿にご利益があると言われています。
干支の組み合わせで六十年に一度、庚申の年があり、一年に六度あるいは七度、庚申の月があります。庚申塔や庚申塚の主流となるのが「青面金剛刻像塔」です。青面金剛は名前のとおり顔は青く、三眼の憤怒相で腕は六臂(二臂~八臂まで様々)に法輪・弓・矢・剣・羂索・錫杖を持ち足元に邪鬼を踏みつけています。

本来、奇病を流行らす鬼神で猿の化身ともいわれていましたが仏法に帰依し帝釈天の使者になって良い神になりました。浄土宗寺院にあるのは非常に珍しいそうで、由来は不明です。